H I B I K A

日々考えていることを綴っていきます。

不幸の種類①

どうも、先日ブログを開設したばかりの新参者だがさっそく投稿していきたい。

 

今回の内容は「不幸の種類」についてだ。不幸とはなにか。

デジタル大辞泉によると次の様に定義されている。

 

[名・形動]
幸福でないこと。また、そのさま。ふしあわせ。「―な境遇」
身内の人などに死なれること。

 

人の幸せを願う時には、幸せを考えるとともに不幸についての理解も要されると考える。今回はそれについて考えていきたい。

 

 

 今回私が「不幸の種類」について考えようと思ったきっかけとしては、私が人助けをした出来事が関係している。その出来事の詳細は関係ないので省かせてもらう。今まで不幸であったと述べていたその人の人生を、幸福へと導くことができたその出来事(これからどうなるはわからないが)は私に達成感や全能感、喜びを与えてくれた。それらの情動は私に人助け、ひいてはこの私が住んでいる日本の国民を幸せにしたいと思わせるには十分だった。ここで言っておくが、私は正義感が強いわけではない。人を幸せにしたという充足感はきっと自分の事だけを考えていては感じることのできない類のモノだろう。私はそれに病みつきになり誰かを幸せにしたいと考えているに過ぎない。これらの考えを稚拙だとか中二病であるなどと笑うのはかまわない。ここではインターネット特有の匿名性を生かして自分をさらけ出してみようと思う。話がそれたが要するに、自分の充足感のために人を幸福にしてみたいというのが「不幸の種類」を考える発端の出来事である。人を幸せにする方法についてはまた今度考えてみたい。

 ではなぜ「不幸の種類」について考えるのか。人を幸せにするときにはその人の不幸を是正しなければならない。しかし、人々にはそれぞれの不幸があるだろう。例を挙げるとすると、貧困、病気、死などだ。今回取り扱う不幸とは改善の難しい状態的なもので、PCが壊れたとか恋人に振られたなどの一過性のものは含めないことにする。こうした不幸の種類分けがもう始まってしまったわけだが、このあたりに意見のある人もいるだろう。そういった方は是非コメントをしてほしい。話を戻して、今回扱う不幸の特性としては「本人の責任性が低いもの」「本人が望んでいないもの」の2点がある。しかし、こうして絞った枠の中でさえ多くの種類の不幸が存在するのではないか。そうした種類を把握できていなければ国全体の不幸を取り払うことは難しいだろう。そういったことをブログ作成の日の家路にて考えていた。故に私は考える。

 

 まず不幸の定義を先ほどデジタル大辞泉様から引用したのだが、あの定義では今回話すうえで曖昧すぎる。なので、今回ここで扱う不幸というものは次の様に定義することとする。

  • 当人の責任が少ない
  • 本人が望んでいない
  • 苦しみを伴う

 さらにここから今回の話題の性質上、自己解決が難いが他人の援助を得ることで解決の可能性が高まるものを拾って話していきたい。

 

 苦しみという観点で見ていくと、まずは仏教用語の四苦八苦が思い当たる。故にまずこれらに含まれる生老病死、愛別離苦怨憎会苦求不得苦五陰盛苦について考えていく。生老病死で今回の内容に合致するのは老と病であるだろう。老いていくことは避けられないまでも、置いた後の処置によりその不幸は取り除かれると考えられる。次に病だが、これに関しては医療の介入によって状況を好転させることができるだろう。ただ、これらには貧困という問題が付きまとう。ここから貧困という不幸が見えてくる。貧困は先天的なものと後天的なものがあると考える。先天的なものは生まれた家庭が貧困に陥っている場合。後天的なものは外部要因による問題が起き、働くことができなくなった場合だ。こうなってしまうともう貧困から脱するのは難しいの社会構造に日本はなっているのではないかと考える。このことから貧困は古今に通じて起こっている不幸の一つだといえるのではないだろうか

 

 

あとがき

つかれました!!!

とりあえず長くなったのでいったんここらで終わりにする。

内容は割とガバガバだから気になるところがあったらバンバンコメントしてくれるとうれしい。

しっかし疲れた(二回目)

本当は一回で全部書いて投稿しようと考えたんだけど長くなっちゃったので一回投稿します。

というか何を書いているのかだんだん自分でわからなくなってきたからクールダウンの意味もかねて。

あと、こういう風に毎回最後にあとがきで感想と書いてるうちに考え付いた話題?を書いていこうと思う。

御見苦しい文章だけど頑張って書いたから読んでみてね。

では、また。

 

考え付いたこと:

考えのアウトプットで起こる考えの固定化の弊害