H I B I K A

日々考えていることを綴っていきます。

孤独であること

 今日はかなり柔らかい内容のものを。この間酒場で友人(1浪)と話をしていた。なんだか大学生にもなってガキくさい奴らが多くないか、青臭すぎてやってられない、考えが浅くはないだろうかなど。

 

 

 まず話し始めたのが最近の若者はどうもおかしいという話だ。もちろん私たちも若者なのだが。何がおかしいのかだが、なんだか物事に対しての理解、考えの浅さが目立ってしまって話していてもしっくりこない。もちろん私たちが物事をことさら深く考えているわけではないのに、それでも何でこの話が理解できないのだろうかという場面に多々出くわすわけだ。例えば、ある映画についてだ。ある学生映画があってそれについて学生同士で意見を交換していた。その映画の内容は、留学生の孤独やそれを拭い去ってくれた友人の関係性、そして堕落していき最後には疎外され過去のまぶしさに目がくらんでしまいそうになる、といったものだ。この最後の時に流れるのがオレンジレンジの「花」であるのだが、それについて他の学生たちは批判的であった。この歌を入れた趣旨を考えたうえで批判をするならわかるが、批判した学生たちは作者の意図がわからないから批判をしたのだそうだ。そこを考えるのが映画の醍醐味であって、礼儀である。それを放棄した姿は最近の若者に共通する冷めた目線や情熱の欠如、熟考の放棄が見え隠れしているように感じる。熟考の放棄なんてのは、私の言っている大学がそんなにレベルが高くない(一応名前は知れているが)というのもあるかもしれないが、よく目にすることだった。

 ではなぜ人々は熟考をしなくなってしまったのか。それは近年流行しているケータイ、スマホ、インターネット、もしくはもっと別の要因が絡んでいるのではないかと考えている。もっと直接的にいうと孤独というものがなくなったからだ。SNSやインターネットで人々は孤独というものを克服したのだ。孤独は否定的な側面ばかり注目されがちであるが、その実多くの益をもたらしていてくれたのではないかと思う。孤独でいるということは自分を見直すきっかけを与えてくれる。例えばなぜ孤独なのか、何が孤独にさせるのか、孤独でない人と孤独な自分の差異は何なのかなどだ。はたまた、そんな否定的な考えを持っていない人は時間を持て余し何かを考えるだろう。ただ、もちろん何も考えないという人もいるだろう。しかし、孤独に勝てる人間はいない。孤独をという問題を解決するべく何かを考えるだろう。それは反省かもしれないし、周りの間違えを見つけ出し自分に合った集団へと移行することかもしれない。そう考えると孤独とは熟考の良い機会だと言える。孤独なのだから邪魔が入らず、だからと言って一人なのだから遊ぶこともない。そうすれば自然と何かをじっくり考える。時間はたっぷりあるのだ。そうすることで物事に対して熟考するという価値ををぼ得るのではないかというのが、私とその友人の共通点を合わせてみて行きついた結果だ。

 知り合いの大学生は暇であることを恐れ、空いてしまった時間には何か用事を入れようとする。それはバイトかもしれないし、遊びに行くものかもしれない。だが共通して言えるのは何かを考える時間ではありえないということだ。考えること、熟考することは孤独で、一人でないと難しい。人といれば、人と話していれば考えは深まるといった考え方もあるかもしれない。しかしそれはもともと持っていた自己の考え方をはなして、それで相手の意見を聞き自分の考えに影響を与えるという行為でしかありえない。自分の考えを持っていなかったとするとそれは非常に薄っぺらなものになってしまう。まずは自分で考えなければいけないのだ。それとの他の人の意見の差異を見つけることこそが話し合いの意義だろう。そう考えると共感しあう話し合いも意味は薄いかもしれない。もちろんそれは今回の話の観点からするとということであり、共感しあうのは楽しいので個人的には全然ありだと思う。

 要は孤独というものを恐れずに一回なってみるといいということが言いたい。虎穴に入らざれば虎子を得ずというやつだ。何事もそうであると考えている日々でございます。

 

あとがき

 

だんだん長文を書くのにも慣れてきましたー長文でもないけど

ガバガバ理論が大嫌いだから完璧な文章を書きたいというマインドの持ち主だから今まで筆が遅かったけれども、ガバガバでもいいから出力することがこのブログの目的だったのを思い出し最近は頑張って更新している次第にございます。

というわけでここ変じゃね?ってところがありましたらコメントでご指摘をおねがいいします!!!!!(コメント乞食)

じゃあ、また。